雁屋哲の美味しんぼ日記


嗜好品 その1

2008年6月14日(土)@ 13:54 | 未刊行 美味しんぼ塾

 お茶やコーヒーなどの嗜好品は無くても命に関わることはない。無くても人間が生きて行くのに何ら不都合はない。とは言え、お茶やコーヒーがなかったら人生淋しい物になるだろうなあ。
 私の嗜好品の第一はお茶だ。
 私は、緑茶、ほうじ茶、中国の様々なお茶、紅茶、要するにお茶がなければ一日として生きて行けない人間である。
 特に緑茶は子供の頃から飲んでいるので、良いお茶がなければどうにもこうにも身動き出来ないくらいお茶に頼っている。

 私の母の兄である伯父は先年93歳でなくなったが、静岡の在で(ここらでちょいと、国語の講義をするぞ。おじ、と言っても伯父と叔父との違いをご存知でしょうか。伯父は自分の父親、母親の兄に当たる人について言う。それに対して叔父は自分の父親、母親の弟について言う、とこうなっているのだ。で、道を歩いている中年の男をつかまえて「おじさん」という場合は、伯父でも叔父でもない。せいぜい、小父さんくらいの所だろうか。)、毎年お茶とミカンを沢山送ってくれたので、子供の頃から、緑茶に親しんでいたのだが、何も知らないと言うことは恐ろしい。社会に出るまで、私は、伯父がどんなに素晴らしいお茶を送ってくれていたか知らなかった。
 大学を出て、会社勤めをした時に、会社でみんなが飲んでいるお茶を飲んで私は仰天した。色がまず不自然だ。あり得ないような緑色と黄色の混ざった色だ。香りが情けない。しっけた海苔のような匂い。味は最早言うまでもない。
 これがお茶なら私が子供の頃から飲んでいた物はお茶ではない。しかし、私は正真正銘のお茶を飲んでいた。で、あるなら、これはお茶ではない。
 その会社でみんなが飲んでいるお茶の葉っぱを見て私はほとんど気が遠くなった。不自然な浅い緑色で、艶がない。形が平べったくて短い。おまけに変に粉っぽい。
 私の伯父の送ってくれるお茶の葉は細く丸まって一つ一つが針のよう、色は緑色が深くてほとんど黒く見え、しかも艶々と光っている。そして、所々、お茶の葉が固まって薄い餅のようになっている部分がある。更に、淹れてみると、お茶の表面に細かなホコリのような物が沢山浮かぶ。
 で、ある時、伯父に尋ねた「どうして、こんなにお茶の葉がくっついてお餅のようになっているの、淹れた時に表面に浮かぶのは葉っぱについているホコリなの」
 すると伯父は、待ってましたとばかりに答えてくれた。「お茶の新芽の一番良い所を丁寧に手で揉むから、葉っぱの一枚一枚が針のようになる。余りに柔らかな新芽は揉んでいるうちにお互いにくっついてところどころ餅のようになってしまう。この、葉っぱが餅のようになっているところが、如何にこのお茶が素晴らしい新芽を使っているかの証拠なんだ。そして、お茶を入れた時に表面に浮かぶ粉のような物は、お茶の葉に生えているうぶ毛だ。新芽だからうぶ毛が残っている。二番茶、三番茶では、このうぶ毛は消えてしまう。お茶の善し悪しの見分けるのに、まず、お茶の葉の形が針のように細く、色は黒く見えるまでに緑色が濃いこと。お茶の葉が互いにくっついて餅のようになった部分があること。淹れた時に表面にうぶ毛が沢山浮かぶこと。これを覚えておきなさい」
 こんなことを子供の頃から叩き込まれたからたまらない。私は今でも、よそでお茶を出されると本当に困ってしまう。まずいお茶を飲むのは本当に苦痛だ。
 私は自分の気にいったお茶を淹れるのに、湯を冷ますところから始まって、淹れ終わるまでに十分以上かかる。
 娘たちは良く知っていて、私がお茶を淹れ始めると傍にいて、淹れ終わると「一口頂戴」と言って味わう。「どうだ」と尋ねると満足げに「美味しいわ」と言う。時には私も上手く淹れられない時もある。そう言う時には「今日はちょっと失敗」と言って味わわせる。逆に自分でも上手く淹れられた時には、私の方から娘たちを呼ぶ。「今日はうまくはいったぞ」娘たちは大いに満足する。一番良い葉を使って、細心の注意を払って淹れても失敗するところが、お茶の難しいところだ。
 それを、ろくでもない葉を使って、熱湯をじゃっと注いだようなお茶を飲まなければならない羽目になった時は泣きたくなる。私はお茶だけは贅沢をしたいのだ。
 同じ夫婦でも面白いもので、私の連れ合いはお茶よりコーヒーに熱狂的な愛情を抱いている。一日に最低で八杯は飲む。連れ合いは自分の一日の水分摂取はコーヒーによってのみ行っていると豪語しているくらいだ。
 そのコーヒー熱が娘たちに遺伝して、我が家の食後は、女たちがコーヒーを飲み、私が粛々とお茶を淹れると言うことになっている。私もコーヒーは好きなのだが、これがまた厄介な性格で、淹れるとなると徹底的に凝ってしまい、機械で簡単に淹れると言うのでは満足出来ない。
 大学生の時に、凝りに凝って、豆の選定から、煎り方、挽き方まで心を悩ませ、ネルの袋にたっぷりのコーヒーの粉を入れて、念入りに淹れる、と言うことをさんざん続けて、何とか香りも味も自分に満足の行くものを淹れようと、熱中したものである。
 私が一番苦しんだのは、淹れる前のコーヒーの粉のあの香ばしい香りが、淹れてしまうと失せてしまうことだった。あれこれ、考えられることを色々試したが、一旦淹れてしまうと、コーヒーがまだ粉だった時のあの香ばしさは失われてしまう。
 さんざん苦しんで、諦めた時に、ダッチ・コーヒーという水出しコーヒーに出会った。大きなガラスの管にコーヒーの粉を詰め、湯ではなく水を注いで、じっくり何時間もかけてコーヒーを抽出しようと言うものである。その水出しコーヒーを飲んだ時、自分の今まで苦労は何だったのか、と力の抜ける思いをした。コーヒーの粉の時のあの香ばしさがそのま残っているではないか。味もとげとげしさがなくふっくらとしている。
 水出しコーヒーはそのまま冷たくても美味しいし、温めても香りは変わらない。自分でコーヒーを淹れる時にコーヒーの粉に熱湯を注ぐことで香りが飛び、味が変質してしまっていたことに、私はその時になってやっと気がついたのだ。
 ところで、その水出しコーヒーだが、ダッチ・コーヒーの道具はでかいし高価だ。あのような高価な道具が無くても簡単に水出しコーヒーを作れることを、友人に伝授されたので、読者諸姉諸兄にも教えて上げよう。
 必要な道具は、麦茶などを作る時に使うガラスの瓶。何処のご家庭でも、袋入りの麦茶をその瓶に入れて、水を満たして冷蔵庫に入れておく、なんてことをしているでしょう。無かったら買いなさい。たかだか数百円のもののはずだ。必要なのはその瓶だけ。
 その瓶に好みの量のコーヒーの粉を入れる。水を注ぐ。それを冷蔵庫に入れて一晩おいておく。翌日、濾紙で濾してカップにとって見ると、おお、なんと言うこと、素晴らしい水出しコーヒーが出来上がっている。
 こんなに簡単なのに、仕上がりの味と来たら、ぐうの音も出ない、と言う奴だ。コーヒー好きな方は是非おためし下さいませ。夏なんか特に最高だね。
 うちではこれを「レイコー」と呼んでいる。(関西に行った時、喫茶店で、アイス・コーヒーを冷たいコーヒー、略してレイコーというのを聞いてひっくり返った。われわれ関東の人間には絶対無い言語感覚だ。余りに驚いたので、冗談に使っていたら、あれま、いつの間にか我が家では常用単語になってしまった。関西の影響は怖いなあ)
 このレイコーの話しは、「美味しんぼ」第百二巻で、山岡が雄山に対して反撃するものとして使っている。そこまで私自身が自信を抱くほど 美味しいのだ。信じてお試し下さい。


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  • 東京哲学喫茶
    — 2008年7月15日
    カップから立つ香り ひさしぶりにコーヒーの話・・・する? 「コーヒーは挽く時はいい香りが広がるけど 淹れたらカップから同じような香りがしない・・・。 淹れ方がわるいの?どう工夫すればいい...
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    — 2010年4月12日
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