ところが、山梨で、甲州種のブドウで作ったワインに出会って驚いた。
この、甲州種のブドウは、奈良の東大寺を建てた行基が山梨にもたらしたと言われているブドウの子孫だが、その甲州種のブドウで作ったワインは、私が合わないと決め込んだ全ての物と合うのだ。
で、前述の鮨屋にそのワインを持込んで鮨と合わせてみた。鮨屋の店長は、以前にあんなことを言いながら自分でワインを持込むなんて、と少なからず呆れていたが、厚顔無恥な私は、そんなことではひるまず、試してみた。
驚くべき事に、甲州種のブドウで作ったワインは鮨にも合うのだ。甲州種ブドウのワインは、細身で、あっさりしている。フランスのシャルドネなどのブドウで作った味の濃いワインを、あちこち出っ張ったり引っ込んだりした肉体を誇る出っ尻の西洋美人とするなら、甲州種のワインはすんなり柳腰の日本美人だ。何が何でも日本料理と一緒にワインを飲みたいという人にはお薦めしたい。(どっしりとした造りで、濃厚な味のワインでないと厭だと言う人には薦めない)
私は、大学で物理を学んで、科学的な思考態度を植え付けられた。どんな事柄でも、第三者が同じ方法で行って見ても同じ結果が得られる事柄しか事実とは認めず、その様な客観的事実の上に論理を組立てて行くのでないと気が済まない。従って心霊現象とか、霊魂だとか、超心理学、とか言う事柄については、そんな話を持ち出されただけで相手の人格を疑ってしまう。そんな私だが、自分自身ではどうしても合理的な説明の出来ない事柄を、人の数倍は経験している。
大学入試の合格発表の前夜おかしな夢を見た。身体の前に大きな太鼓をぶら下げた男が、太鼓をドンガラドンガラ叩いて騒ぎ回るのである。なんと言うおかしな夢だろうと、目が覚めてから自分で面白がっていたが、合格発表を見に行って私は震え上がった。合格発表を見に集まっている受験生たちの周りで、昨夜の夢に出て来た男が、夢の中と同様、身体の前にぶら下げた太鼓を叩きながら騒いでいるではないか。夢の中では、その男が騒いでいる理由が分からなかったが、合格発表を見に行ってその理由が分かった。その男は、大学の弓道部の部員で、合格発表の場で新入生の入部勧誘をしていたのだ。
外で、旧知の人間と思いも寄らぬ状況で出会うことは、しょっちゅうである。この間NHKの番組に頼まれて出た時のことだが、著名なシェフの家を私が訪ねて、御馳走になると言う趣向で、私がそのシェフの家に入るところから撮影を始めることになった。で、門前でスタッフと打ち合わせをしていると、道を隔てたお向かいの家の庭で洗濯物を干していた中年の婦人が私を見て、庭から道に飛び出し、外から丁度戻って来たご主人と思われる男性に「雁屋哲さんよ」という。その男性は私を見て驚き、夫妻で並んで道を隔てて私に向かって立った。
私は、有り難いことにあちこちに「美味しんぼ」の愛読者がいてくださるのでその様なことは良くあるから、「有り難い、ここにも愛読者がいてくださった」と思って、一礼した。すると、そのご主人の方は、自分の胸を指して大声で、「◎◎◎◎です」と仰言る。私は仰天した。私が量子力学を学んだ大学の恩師ではないか。私は、駆け寄って「わあー、先生!」と飛びついてしまった。「先生、どうしてこんなとこにおられるんですか」と私が言うと、恩師は「何を言ってるんだ。君たちが学生の頃からずっとここに住んでいるんだ。君の同級生の何人かはこの近くの自動車学校に通って免許を取ったんだぞ」と仰言る。
私は、自分の醜悪な間抜け面を人様にさらすのは公害だと思っているので、テレビには出ないようにしている。その時も、直前まで断ろうかと思っていたのだが、私の姉が担当のプロデューサーと仲良くなってしまい、姉命令で出ろと言うので、諦めて出ることにしたのだが、そのシェフの家のお向かいに恩師が住んでおられるとは思いもしなかった。第一、私がスタッフと打ち合わせをしている時に先生の奥さまが庭に出て来られなかったら、そのまま、お互いに知らずにすれ違っていただろう。おかげで、その後、大学の同級生たちを誘って、先生と食事をして、楽しい時間を過ごすことが出来た。
こんな事は限りなくある。私の両親とギリシャのレストランで食事をしていたら、当時一緒に仕事をしていた漫画家が突然入って来る。銀座で自動車を運転していて、うっかり道を間違えて、路地に入り込み、大通りに出ようとしたところに、大学を出てから勤めた会社の同期の仲間で、沖縄に住んでいるはずの親友が目の前に飛び出して来る。余りそんなことが重なるので、私の連れ合いは、私がたまに秋谷から東京に出かけて帰ってくると、「今日はどんな人と会った?」と聞くようになった。
ワインがらみでも不思議なことがあった。大学を出たばかりの頃のある夜、素晴らしく美味しいワインを飲む夢を見た。甘口だがその甘さが典雅きわまりなく、その上清純な野の花を千も二千も集めたような香りが鼻を抜けて体中を包み込む。私は目が覚めてからも、その味と香りが忘れられず、一体こんなワインが本当に存在するのだろうか、と悩ましい思いをした。
ところがその夜、一本のワインを父が買ってきて飲ませてくれたのだが、一口飲んで私は飛び上がりそうになった。なんと言うこと、昨夜の夢の中で飲んだワインその物ではないか。
ワインはフランスのボルドーのいわゆる貴腐ワインだった。貴腐ワインとは、貴腐ブドウと言って、ある種のカビが表皮に繁殖して表皮のろう質の部分を解かしてしまった結果中身の水分が抜け出して、腐って乾いたような姿になったブドウから作るワインの事だ。貴腐ブドウは、水分が抜けた結果糖度が極めて高くなり、素晴らしい甘口のワインを作ることが出来る。で、腐ったように見えて、素晴らしいワインが出来ることから、「高貴なる腐敗」、すなわち、貴腐ブドウというのである。
私は貴腐ワインを飲む前の夜に、夢の中で前もってその味を味わったことになる。(この話は「美味しんぼ」の中で、山岡の体験として書いた)
こう言うことは、科学的にどう説明が付くのか分からない。ただ、どうしても単なる偶然とは私には思えないのだ。
ワインでは辛い思いをしたこともある。シドニーでロシア料理のレストランに行った時のことだが、料理は死ぬほどまずい上に、ワインが凄かった。ラベルに、「Russian Red Wine」と書いてあるだけの赤ワインである。こんなでたらめな表示のワインが有っていいのかと笑いながら一口飲んで、これは飲めた代物ではないと判断し、飲むのをやめ、余りに滑稽なラベルなので、瓶だけ貰って帰ってきた。ところが、ああ、なんと言うこと、グラスに一杯分すら飲まなかったと言うのに、翌日、すさまじい二日酔で七転八倒した。ロシアの祟りは恐ろしい。これでは、ソ連が崩壊するのも無理はないと身を以て味わった。
ああ、ワインの話なら限りなくある。しかし、紙数が尽きた。次には読むだけで二日酔になるほど、ワインについてたっぷり書きたいものだ。
ワイン その3
2008年4月19日(土)@ 16:16 | 未刊行 美味しんぼ塾
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