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	<title>雁屋哲の美味しんぼ日記 &#187; 雁屋哲のシドニー子育て記</title>
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	<description>「美味しんぼ」原作者、雁屋哲の公式ブログ。</description>
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		<title>第一章　その７</title>
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		<pubDate>Sat, 15 Nov 2008 13:16:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　子供たちの英語の勉強は、学校で自然に学ぶ程度で間に合うものではない。日本の商社の駐在員の方に、素晴らしい女性を紹介して頂いた。
　エア・オランと言う、当時四十代半ばの女性で、もともとはエジプト人だったのだが、ナギブ、ナ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　子供たちの英語の勉強は、学校で自然に学ぶ程度で間に合うものではない。日本の商社の駐在員の方に、素晴らしい女性を紹介して頂いた。<br />
　エア・オランと言う、当時四十代半ばの女性で、もともとはエジプト人だったのだが、ナギブ、ナセル、指導によるエジプト革命が起こって、当時王政側だった彼女の家族はエジプトから逃げ出さざるを得なくなり、彼女はフランス人のジャン・ピエール・オラン氏と結婚してオーストラリアに住み着いたと言う複雑な経歴を持っていた。<br />
　エジプトの政治的なことは分からないが、オランさんは明らかにエジプトの上流階級の出であるように思われた。（だから、革命後エジプトを出なければならなかったのだろう）大変に上品な女性であって、アングロサクソンの女性に有りがちながさつな感じがなく、物腰も柔らかく、機知に富んでいるので子供たちもすっかりなついて、おかげで、英語の勉強が大変に良く進んだ。<br />
　オラン先生には、その後も長男長女は十二年生（日本の高校三年生）まで、ずっと英語を見てもらった。高校三年生の卒業試験で、満足な回答を書くための英語は、そこまでしてようやく身に付いたのである。<br />
　繰り返しになるが、本当に外国語を自由に使えるようになるのには、長い年月の努力が必要だ。どこかの英語学校に通ったら、三か月でアメリカに行って仕事の役に立った、等と言う英語学校の宣伝を見るたびに、私は世の中には凄い語学の天才が多くいる物だと感心する。（そんなことが有るわけがない）<br />
　オラン先生夫妻は、チャーチ・ポイントのすぐ前のワシントン島に住んでいて、そのうちに夫婦でボートを作りはじめ、しまいにはそのボートを家にして暮らすようになった。いつか、そのボートでエジプトまで行くのが夢だと言っていた。この冒険心の凄さに私は参った。日本は海国だなどと言うが、ヨーロッパ人に比べれば、単に自分の港の周りをくるくる回っているだけのもので、外洋に本気で乗りだしていく根性を持っている日本人はほんの僅かしかいなかった。（勿論江戸時代の鎖国政策の影響が大きかったが、ポルトガル人やスペイン人は日本が鎖国をするはるか以前の十五世紀から世界中の海に乗り出していたのである。）<br />
　オラン先生に限らず、日本にいては会う機会もないし、そのような境遇の人間がいることも想像がつかない人がオーストラリアに大勢移民して来ているのを見て、私は人と国の関係について深く考えるようになった。日本にいて、たまに外国に観光旅行に行くことでは到底掴めないことがある。<br />
　この地球上の世界は日本でのんびりと暮らしていてはとても分からないことばかりだ。私の身の回りを見回すだけで、ユダヤ人、スロバキア人、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人（良く日本人は、アイルランド、スコットランド、イングランドを大英帝国でひと括りにして、同じ人々のように思うが、これが、大違いで、例えば、スコットランド人、アイルランド人はイングランドに対して対立的な意識を持っているのである）、チェコ人、ポーランド人、マレーシア人、中国人、韓国人、タイ人、レバノン人、セルビア人、イタリア人、ペルー人、インド人、デンマーク人など実に様々である。（ただ、不思議なことに、シドニーではアフリカ系の黒人は滅多に見ない。これは、どうしたことなのだろう）<br />
　だから、日本へ帰って、右を見ても左を見ても皆同じ顔つきの人間ばかりだと、返って不思議な感じがする。<br />
　オーストラリアは移民国家で、最初にこの土地を占有したアングロサクソン以外は、それぞれに自分の国を離れて遠い南半球にまでやって来た理由を抱えている。<br />
大変な苦労をしてオーストラリアにたどり着いた人も少なくない。<br />
　文化も違い、言葉も違い、肉体的な特徴も違う、様々な人たちが寄り集まってオーストラリアという国を作っている。<br />
　私達日本人は、単一民族による国家と言う幻想を抱いていて（日本人は単一民族なんかではないのだが）、自分と明らかに顔形の違う人間をなかなか日本人として認めようとしない。韓国人や中国人のように、我々と見た目の違いがわからない人たちに対してさえ、日本人ではないと言って、差別をする。<br />
　そう言う日本から、色々な人種が入り交じって作り上げた国に来ると、非常に風通しの良い感じがして気持ちが良い。<br />
　私は、オーストラリアに長い間住めば住むほど、ますます熱烈な愛国者になり、死んでも日本以外の国の国民になりたいとは思わないが、日本のぎっちりと固まった社会から離れてオーストラリアにいると楽な気分になることだけは確かなのだ。<br />
　オーストラリアも７５パーセント以上がアングロサクソンであり、社会の実権はアングロサクソンが握っているのだが、移民社会を運営するために公正（フェア）と言う事を大事にする。少しでも、人種偏見的なことを言ったりしたりすると、その人間は不公正（アン・フェア）な人間として、非常にまずい立場に追いやられる。<br />
　一時、ポーリン・ハンソンという白人至上主義の実に乱暴な女性が、移民の禁止などを訴えて、ワン・ネイションと言う政党を作り、国会議員にもなったりした。やはり、白人至上主義は根強いものが有り、一時は勢力を伸ばすかに見えたが、流石にオーストラリアの社会の良識がそのような勢力の存在を許さなかった。今や、ワン・ネイションは消滅したも同然である。ポーリン・ハンソンと言う女性も、クィーンズランドの田舎町に引っ込んだ。<br />
　勿論、個人的にはさまざまな人種偏見を抱えているのだろうが、社会全体として、そう言うものを排除していこうという、きちんとした態度が有るのは素晴らしいことだ。<br />
　私が、先に書いた、移民局の女性のような人物は実にまれな存在なのである。</p>
<p>　と言うところで、どうして私達夫婦がシドニーの移民局で、思い出すだけで血が逆流するような目に遭ったのか、その理由を書かなければなるまい。<br />
　私達がシドニーに越して来た翌年、１９８９年に、私達自身まだこの土地に落ち着く余裕もないときに、私の連れ合いの甥の友希が、我が家の一員として合流したのである。<br />
　私の連れ合いには兄が一人いたが、その兄が、まだ一歳ちょっとの友希を残して三十一歳の若さで亡くなってしまった。<br />
　その後、兄の連れ合いは再婚したが、私の連れ合いの母にとっては、大事な孫であり、義母は私達と暮らしているから、友希は何かあるごとに我が家に来ており、我が家の一員になりきり、親分肌の性格なので私の子供たちには長兄のような態度で振る舞っていたし、子供たちも友希を実の兄のように好いていた。<br />
　私達、特に連れ合いの母親にとって、友希は大事な存在だった。私の子供たち全員をオーストラリアに連れてきてしまうのに、友希を日本に残すのは、私達にとって非常に気掛かりなことだった。そこで、私達がオーストラリアに来るにあたって、友希の母親と義父に、友希もオーストラリアに留学させたらどうかと勧めたのである。<br />
　最初、友希の母親も義父も、ためらっていたが、私達がシドニーに越して来てから一度家族で来てみて、シドニーの環境に満足して友希を留学させることが決まった。<br />
　その時、友希は日本の高校の一年生に在籍していた。<br />
　そこから問題が起こった。<br />
　私達は、オーストラリアに来るに際して在日オーストラリア大使館が非常な好意を示してくれて、私は、オーストラリアに永住するつもりはないからそんな物はいらないと言ったのに「これが有ると便利だから貰っておきなさい」と言って永住権のビザをくれた。<br />
　それで、私はビザと言うものについて非常に甘い考えを抱いてしまった。そんな物は、欲しいと言えば簡単に貰えるだろうと思ったのである。<br />
　ところが実情はそうではなかった。オーストラリア大使館が私に永住ビザを与えてくれたのは、私がそれまでに書いた随筆などを見せたからであって、その中にはオーストラリアについて非常に好意的に書いた物が有った。オーストラリア大使館としては、こう言う人間は利用価値が有ると考えて永住ビザをくれたのだろうと、今にして思う。<br />
　２００８年現在、日本人がオーストラリアの永住ビザを取るのは大変難しい。寿司や和食の料理人など、特殊な技能を持っていると比較的容易に取れるが、美術などの芸術を専門にしようと思うとこれは恐ろしく難しい。問題は、その人間がオーストラリアに対して（特に経済的に）貢献する度合いである。<br />
　私に永住ビザをくれたのは、私がオーストラリアを日本に宣伝してくれると踏んだからである。実際に、私は、「美味しんぼ」などでさんざんオーストラリアの宣伝をしてきたのだが、オーストラリア政府は私に勲章も感状も寄越さない。実に不届き千万である。<br />
　この二十年間私ほど日本でのオーストラリアの宣伝に力を尽くした人間はいないと私は自負している。私は、出版社から一切の援助も得ずに、日本からカメラマンを自費で呼び、オーストラリア人の助手を使ってオーストラリアの全ての州を取材して周り、オーストラリアの素晴らしさを探って「美味しんぼ」に掲載した。「美味しんぼ」によって、オーストラリアについて初めて知ったという日本人は少なくない。（こんなに自慢していいのかな）私が紹介するまで、日本人のオーストラリアについての知識は、カンガルーとコアラとブーメランだけだったのだから。<br />
　私に、永住ビザをくれたオーストラリア大使館のもくろみは大成功だ。<br />
　友希の場合は、オーストラリアの高校に入りたいというところが、私の場合とは大分利害関係が違った。<br />
　オーストラリア政府の方針としては多額の授業料を支払う私立大学の学生については、留学生ビザを支給するが、オーストラリア人の税金で成り立つ公立高校に入りたいという学生については簡単には出さないのである。<br />
　それは、今にして考えれば当たり前のことだと思う。例えば、日本で、外国から留学を希望してくる学生を、日本の国公立高校に全く無制限に受け入れることはないだろう。どこの国でも同じ事である。<br />
　しかし、当時の私達は、そんな常識的なことを考える余裕はなかった。早くビザが下りないと友希の勉学予定が狂ってくる。<br />
　そこで、何度も、移民局に足を運び、友希のビザはどうなっているか、訊ねたのである。<br />
　友希は留学生ビザを申請しなければならなくなったのだが、その手続きが良く分からない。それで移民局に行ったのだが、長い間行列を作って待たされた挙げ句、私達は担当の女性係官に怒鳴られたのである。<br />
　私達が事情を説明して友希のビザはどうなっているかと尋ねると、その女性係官は終いまで聞かずに、「そんなことは学校に聞け」と怒鳴る。あまりの剣幕に私達がうろたえていると、女性係官は「なにをぐずぐずしているのか、そんなところにいつまでも立っていたら後の人の邪魔だ、そこをどけ。場所を空けろ」とすさまじい形相で罵る。普通の人間は、犬や猫にだって、あんな風に乱暴に振る舞えるものではない。<br />
私達のうしろに並んでいるのも、左右の列に並んでいるのもアジア人ばかりで、しかも敢えて言うなら決して豊かには見えない人たちばかりだった。国境の検問の前に並ぶ難民の群、と言うと余りに大袈裟だが、入国ビザを求めて並んでいる人間は、与える側から見れば、それに近く見えるのではないか。<br />
　自分の国に入りたがっている薄汚いアジア人の夫婦。ちびで貧相な上に、英語もたどたどしいと来ては無教養に決まっている。こんな連中が入って来るからオーストラリアの納税者は経済的な負担をしなければならなくなる。誇り高い白人文化が乱される。ああ、鬱陶しい。<br />
　それが、その時の女性係官の心の内だったのだろう。<br />
　連れ合いは別の日に、自分一人で出掛けていって、やはりひどい目に遭って、今度は本当に泣いてしまったと言う。<br />
　日本の入国管理官もひどいと言う評判だが、シドニーの移民局のひどさもかなりのものだと思う。<br />
　その移民局の女性係官の態度はどこからどう見ても、差別心に根ざしていた。今までに私達が経験した最悪のものだった。私達は差別を受けたことはないと言ったが、オーストラリアと言う国の根っこの部分にこの様なアジア人、日本人に対する差別意識があることは忘れるわけには行かない。<br />
　私達が、余り何度も同じ事を聞きに来たので、あの醜悪なアングロサクソンの移民局の係官の女性は苛立ったのだろう。<br />
　確かに、同じ事を何度も聞きに行った私達にも非が有るかもしれないが、あの女性係官だけは許せない。あの女性は間違いなく、ろくでもない無残な人生を送っているだろう。</p>
<p>　そんな、うんざりするような経緯をへて、友希は１９８９年から私達と合流した。<br />
　私の連れ合いは、五人の子どもの面倒を見なければならなくなった。<br />
　友希が上手い具合にシドニーに滞在できるようになってからも、通う学校の選定、ホームステイとして預かってもらう家の選定。そんなことが重なって、連れ合いの心労は甚だしかった。<br />
　英語を学ぶためには私の家にいたのでは日本語漬けで意味がない。どうしても、現地の家庭にホームステイしなければ英語力が付かないので、また日本の会社のシドニー駐在員の方のお力を借りて、クレランドさんと言うニュージーランド人の家にホームステイすることが出来た。<br />
　友希はクレランドさんの家から、公立のキララ・ハイスクールに一年弱通い、その後シドニーから車で四時間ほどはなれたバサーストと言う町にある、全寮制の高校に入学した。バサーストは観光地で名高いブルーマウンテンより更に奥に入ったところにある小さな田舎町である。田舎町らしい、非常に風情のある町並みで、勉強をするのには良い環境だが、遊びたい盛りの高校生にとっては色々と不満は有ったようである。</p>
<p>　こうして、我が家は総勢八人となり、１９８８年の５月から、１９８９年一杯、私達は、オーストラリアと言う、まるで日本とは環境の違う国に適応することに精一杯で、無我夢中の一年半を過ごした。<br />
そして、１９９０年から、私達の生活は思わぬことから大きく変わることになった。</p>
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		<title>第一章　その６</title>
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		<pubDate>Tue, 23 Sep 2008 07:31:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　裸足と履き物の話はこれくらいにして、オーストラリアの子供達の行儀について言うと、これは私達日本人から見るとかなり悪い。後々、長女がベビーシッターに行ったときに、行った先の子供に手こずる話をすることになるだろうが、これは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　裸足と履き物の話はこれくらいにして、オーストラリアの子供達の行儀について言うと、これは私達日本人から見るとかなり悪い。後々、長女がベビーシッターに行ったときに、行った先の子供に手こずる話をすることになるだろうが、これはアングロサクソンの民族性による物らしい。と言うより、西洋人の特質の一つとまで広げても良いかも知れない。<br />
　少し前に、隣に越して来た家の子供たちにひどい目に遭った話しを書いているが、そこにもちょっと触れているように私達はそれ以前に次女の同級生の女の子に驚かされている。それは私達がまだオーストラリアに来て間もない頃で、次女は小学二年生。子供達が英語を良く話せないので、その女の子が私の所に何か言いにやってくるのだが、何の用かと思えば、いきなり口を大きく開けて、その口を指で指して、何か食べる物をくれというのである。どこかの難民の子供でももっと品が良いだろうと、呆れはしたが、こっちもオーストラリア人の子供と付き合うのは初めてなので戸惑ってしまい、連れ合いに何かお菓子をやってくれと言った。連れ合いは戸棚を開けて菓子を出してその子と、その子の弟にやった。するとありがとうを言うでもなく、ひったくるようにして菓子を取りがつがつ食べ始める。そして今度は飲み物をくれという。連れ合いが冷蔵庫から出してやると、馬のように飲む。<br />
　飲み食いが終わると家中を縦横無尽に駆け回り、散らかし回る。まあ、そのすさまじいこと。家の子供達は、隅の方で小さくなってそれを見ているだけ。私は小学二年生の子にそこまで傍若無人に振る舞われたことはないし、また小学二年の女の子がそこまで傍若無人に振る舞えるとも知らなかったので、ただただあっけにとられるだけだった。<br />
　しかし、呆れたり、あっけにとられるのはまだ早かった。その次の日から、弟と一緒にやってくると、もう勝手知ったる自分の家、と言った案配に戸棚を勝手に開けて菓子を食べる。それも、家の子供達が大事にして滅多に食べないようにして取ってある日本のお菓子を食べてしまう。冷蔵庫を開けてジュースだろうが、牛乳だろうが、手当たり次第飲み散らかす。大事に飾ってある物をおもちゃにする。家中の物をいじり回す。ひっくり返す。それを弟と二人でやるからたまらない。乱暴狼藉とはまさにそのこと。<br />
　人間、余りに思いも寄らぬことに直面すると、どう対処して良い物やら分からないと言うことを味わわされた。<br />
　今、その子の名前を思い出した。ケイトと言った。<br />
　ケイトとその弟の二人の子供の振る舞いは、日本の子供には絶対にない物だった。盗賊が乗り込んできて、勝手気ままに略奪されたらこんな気持ちになるだろうかと思った。小学二年の女の子と、小学一年の男の子がそこまでするか、と言うくらいひどかった。<br />
　最初の二、三日は呆れるだけだったが、仏の顔も三度までとやら、私達もついに腹を立てて、ケイトを家に入れなくした。それで被害は収まったが、その時味わった嫌な気持ちはこうして今も残っている。<br />
ケイトとその弟を皮切りに私達は今までにオーストラリアの子供のたちの悪さを散々経験した。<br />
　それで分かったことは、こちらでは子供に甘い顔を最初から見せてはならないと言うことだ。舐めたことをしたら承知しないぞ、と最初に睨みを利かせて置かなければならない。これが我々日本人にはとても難しい。<br />
　日本では、どこの子供であれ、大人は優しく親切にしてやるものだが、こちらでそんなことをしたら、たちまち舐められてしまう。日本では子供に接するのに、最初から禁止条項を設けることはない。何か子供が、いけないことや危ないことをしでかしそうになってから、それは駄目、やめなさい、などと言って収まる。<br />
　こちらでは逆だ。最初から全てのものは禁止しておいて、中に我々にとって我慢できることがあれば、特別の恩寵であることを十分に分からせて許可してやる。そして、してはいけないこと、大人が嫌だと思うことをしたら厳しい罰を加える。こうしなければ、とても収まりがつかない。<br />
　ケイトのことについて言えば、最初の日に私と連れ合いが甘い顔をしたのが悪かったのである。<br />
　ケイトにしてみれば、一押ししたら簡単に言うことを聞いた。それなら、もう一押しも二押しもしよう、と言うことだったのだろう。隣に越して来た家の子供たちについて言えば、これこそまさに、アングロ・サクソンの開拓者精神その物ではないだろうか。自分にとって未開拓の領域を見つけたらとにかく侵入してみる。そこに何か獲物があれば取る。妨げをするものがいれば実力を行使する。相手が引っ込めばそこは自分の領土になる。あの子供たちのやり方を見ていて、私はしみじみとアングロ・サクソンの精神構造が分かったような気がした。民族の精神構造は表面を取り繕う知恵が発達する前の子供に露骨に正直にでるものだからだ。<br />
　我々とオーストラリア人との違いは子供とのつき合いだけにある訳ではない。大人との付き合いでも同じだ。<br />
　日本人のように相手の気持ちを忖度することがない。自分の主張と要求ををどんどんぶつけて来る。日本人のように、相手の気持ちを測りながら、折り合いのつくところを見つけようと言う複雑なことはしない。<br />
　日本人は、相手が分かってくれるだろうと思って遠慮して、言いたいことを控える。ところが、オーストラリア人は、遠慮と言うことを知らないから、日本人が文句を言わないからには何も問題はないのだと思う。どんどん自分のしたいように振る舞う。ぎりぎりの所に来て、たまりかねて日本人が怒りを爆発させると、オーストラリア人は驚く。驚くだけでなく、怒り出す。今頃になって嫌だというのは汚いと言う。<br />
　西洋の歴史は民族抗争の歴史である。一方、日本は幕末にペリーが浦賀に来るまでは、元寇の役を除いて他民族との抗争と交渉の歴史がない。自国の政治に大きな影響を与えるような他民族との抗争と交渉を持たずに二千年過ごしてきた国は世界史の中でも特異な例だろう。日本の外交政策は情け無いほど拙劣だが、その原因の一つはそこにある。<br />
　良く、ユダヤ人はしたたかだと言う。すると華僑はもっとしたたかだと言う人がいる。今度は別の人が、いや、インド人の方が遥かにしたただと言う。切りがない。<br />
　何のことはない、日本人がとろすぎるのであって、他の国の人間は皆したたかなのだ。島国の村社会で、二千年暮らして来た日本人にはそのようなしたたかさは身に付かなかった。戦国の武将たちは結構したたかに見えるが、彼等の戦いは所詮は同じ民族どうしの戦いである。異民族が互いの民族の生き残りをかけた西洋や中近東での戦いとはきびしさが違う。<br />
　日常生活では非常に弱者に対する思い遣りがあり、礼儀も正しいが、一旦、利害に関わることとなったら遠慮、思いやり、他人の気持ちの忖度、そんな事をしていたら自分が殺されてしまう。そう言う意識が潜在的に刷り込まれているのが西洋人だ。人生観が我々とは根本から違うのだ。<br />
　話が大袈裟になったが、小学二年の女の子でさえ、どこまで押せるか押してみようと思うのが西洋の社会であると、私達は学んだのだ。私は自分の子供達に、同じように振る舞えとは言わないが、相手の行動の形と、思考の形をちゃんと理解してそれに対応できるようになってくれないと困ると真剣に思った。</p>
<p>　それはともかく、ロカット・バレイ・スクールでは、本当に親切にしてもらった。<br />
　校長のマックグラー先生は、私の子供たちの英語力では無理と思われる時間には、校長室に私の子供たちだけを呼んで、特別に英語の勉強をしてくれた。<br />
　それだけでなく、私の子供たち一人一人にそれぞれの面倒を見る係の生徒をつけてくれたのだ。<br />
　私の子供の係になった生徒は実に熱心に私の子供たちに様々なことを教え導いてくれた。全く右も左も分からない私の子供たちにとってそんな親切な係の同級生がどれだけ助けになってくれたことか。学校全体で、私の子供たちを大事に扱ってくれた。今でも、その頃のことを思い出すと、有り難さに頭が下がってしまう。<br />
　翻って考えるに、日本に東南アジアの国の家族が来たとして、その子供たちが日本の学校でそこまで親切にしてもらっているだろうか。残念ながら、私が良く耳にするのはそれと反対のことである。親切にしてもらって文句を言うのもおかしいが、私は非常に参った。これは、負けだな、と思わざるを得なかったからだ。</p>
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		<title>第一章　その５</title>
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		<pubDate>Sat, 02 Aug 2008 06:33:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　もう一つの切実な問題は、言語と文化の関係である。
　私達は外国語の習得が難しいものであることを骨身にしみて味わったが、これで子供達に英語力が付いてくると今度は、日本語を忘れるという問題が起こってくる。
　アメリカやオー [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　もう一つの切実な問題は、言語と文化の関係である。<br />
　私達は外国語の習得が難しいものであることを骨身にしみて味わったが、これで子供達に英語力が付いてくると今度は、日本語を忘れるという問題が起こってくる。<br />
　アメリカやオーストラリアにいるアジア人で英語しか話せない人を良く見かける。家族の中でも英語で話している。名前も姓の方は伝統的な姓を残しているが名の方は英語風のものになってしまっている。<br />
　名前はオーストラリアに住むのには、オーストラリア風に変えたほうが便利だから構わないが、母国語を失った人を見る度に、私は正直に言って何と勿体無いことをしたんだろうと思ってしまう。言葉は文化その物であり、その人間の根っこだと私は思う。言葉を失うことは文化を失うことだ。自分達の文化を失って他国に生きることは、他国で単なるマイノリティに堕する事だとも、私は思う。<br />
　西洋の文化は強烈である。また、西洋人は肉体的に巨大で精力に満ちている。そのような西洋人を相手に、私のように肉体的にもみすぼらしく、金の力もない人間が何とか自分自身を保つことが出来るのは、私には自分の背後に日本文化が控えていると言う自負があるからである。おかげで、西洋文化の中に住んでいても自分を見失わないで済むし、西洋人と対等に立ち向かうことが出来るのである。<br />
　これは私の子供達にとっても同じ事だと思う。日本文化を失わない限り、自分の根っこと、自信を失わないだろう。<br />
　私なんか、オーストラリア人たちと話すときは、それこそ、我こそは日本人の代表であると意気込んで、美術にしても、生活様式にしても、日本人の道徳観まで、日本の文化の奥深さ、素晴らしさをしつこく説いて相手が、本当に感心するまで止めない。<br />
　西洋人と付き合って分かったのだが、しつこいと思われるくらい、自分の思っていることを言い張らないと、相手も尊敬してくれない。あいまいな態度でへらへらせずに、徹底的に私が日本文化の優秀さを語り尽くすのである。<br />
　良く、オーストラリア人に、「お前はおれの知っている日本人と大分違うな。えらく、自己主張が強いし、ジョークをしょっちゅう言う」と呆れられるが、しかし、思っていることを思いきり言うことで、本当に理解しあえて仲良くなれるものなのだ。<br />
　オーストラリアのような多文化主義の国は、例えて言えば、みんなが料理を持寄ってパーティーを開いているようなものだと思う。持寄る料理とはそれぞれの民族の文化である。それぞれが異なる特色の料理を持寄ってこそパーティーは楽しく豊かになる。その時に、自分の料理を持って来ず、他人の料理を食べるだけの人間はパーティーの掟破りだ。他人の文化に埋没してしまう人間は尊敬されないのだ。<br />
　他人の料理を味わい、自分の料理も他人に味わって貰う。時には、他人の料理と自分の料理の良いところを合わせて、今までにない新しい料理を作る。それは新しい文化の創出だ。それこそが本当の意味の国際化というものではないだろうか。<br />
　眞の国際化は自分の文化をしっかり持って初めて可能なことだと私は思う。日本では西洋崇拝の念が強いから西洋風の生き方が国際化だと思っている人が少なからずいるが、他国の文化に埋没することは国際化ではない。その為に、母国語を失うわけには行かないのだ。</p>
<p>　この最初の二、三年は、言葉の問題と同時に、日本とオーストラリアの生活文化の違いに大変苦しんだ。<br />
　その当たりのことは、JPに書いたものを読んで頂こう。</p>
<p><strong>◎JP「１９９１年・１月」</strong></p>
<p>《私はどうやら、ひどく旧幣な人間であるらしく、子供たちをオーストラリアに連れて来ていながら、子供たちがオーストラリア人のように振舞うと腹を立てる。「日本人らしくしろ！」と子供を叱ることが度々ある。<br />
　たとえば、私はオーストラリア人が、それも大の大人や妙齢の御婦人までもが裸足で外をぺたぺた歩き回る姿に我慢がならない。海岸や、プール・サイドならかまわないが、家の回り、庭の中、街路などを裸足で歩くのはとても勘弁ならない。特に街路には犬・描・鳥の糞、種々雑多なゴミ・埃・そんな物が散らばっている。そこを裸足で歩く神経が耐えられない。見ているだけで、私は気持ちが悪くて背筋がゾクゾクする。<br />
　腹が立つのは、私の子供が、その真似をして裸足で外に出たがることだ。ちょっと眼を離すと、私が何度も叱っているにもかかわらず、裸足で外に飛び出してしまう。<br />
　裸足で外を歩くのはそんなにも気持ちが良いのだろうか。<br />
　裸足より、もっと苛々させられるのはオーストラリアの子供の行儀の悪さである。<br />
　チャーチ・ポイントに住んでいるとき、隣に越して来た家の子供たちにひどい目にあった。<br />
　十歳・七歳・五歳の三人娘なのだが、裸足で塀をのりこえて来ると、うちの次女・次男と大騒ぎを始めた。楽しく騒ぐのは良いのだが、日本人の子供とは大分違う。<br />
　家中を走り回る。戸棚は勝手に開けて中の物を引きずり出す。冷蔵庫のジュースは断りなく飲む。ピアノは叩きまくる。オモチャの類は床一杯にぶちまける。たまりかねて私の妻がうちの子供たちと一緒に片付けさせようとすると、どうして私が片付けなきゃいけないの、と抜かす。<br />
　日本人の子供なら当然持っている「遠慮する」という態度は皆無である。<br />
こんな経験は初めてではない。引越して来て早々、次女の同級生がその弟をつれて来た時に同じような目に会って以来、何度か経験して来た。<br />
　しかも、腹が立つことに、そんな子供たちが、自分の家で、自分の両親の前ではウソのように行儀良くふるまうのである。<br />
　これはイギリスの伝統なのだそうだ。イギリスでは可能性は全て試して見ると言う態度を子供の頃から身につけている結果、やってみたいと思ったことはまず実行する。<br />
　しかし、大人が駄目と禁止したら、あきらめる。<br />
　だから、すでに禁令の張りめぐらされた自分の家では、それに従っておとなしくふるまうが禁令のないよその家では可能性を試すのだそうである。<br />
　なるほど、そのような国民性があったからこそイギリス人はインディアンを滅してアメリカを作り、アボリジニを滅してオーストラリアを作ることが出来たのだろう。<br />
　二十一世紀を生きるからには、私の子供たちもオーストラリアの子供たちのように、遠慮よりも可能性を追求するほうが生き易いだろうとは思うのだが、それはどうも私の良しとするところではない。<br />
　異文化の中で子供を育てるのは難しい。異文化の良いところだけを身につけて欲しいと願うのはムシが良すぎると言うことなのかも知れない。》</p>
<p>　生活文化の違いというものは、体験してみなければ分からない。<br />
　オーストラリアに来て、初めて裸足で歩いている人を見たときには驚いたものである。若者が血気にまかせて裸足で外に飛び出したというのならまだ分かるが、日本風に言えば会社の中堅管理職位の年輩の紳士も、妙齢のご婦人もそこらの商店街を裸足でぺたりぺたりと歩いているのを見た時には我が目を疑った。<br />
　ある時、オーストラリア人の家に招かれたとき、そこの家の夫人が裸足で迎えに飛び出してきて驚いたことがある。その夫人は教養もあるし、中の上に属する結構な暮らしをしている人である。そのまま、その夫人は自慢の庭を見せるために私達を案内してくれたのだが、私には庭の泥の上をべたべた裸足で歩く夫人の足が気になって、自慢の庭の良さが良く分からなかったのは残念なことだった。<br />
　さすがに冬の間は裸足で歩く人は殆ど見かけないが、これが春になるとあっちにもこっちにも裸足人間が登場する。晴れている日ならともかく、雨降りの日に町中を裸足で歩くのを見ると気持ちが悪くてこちらの足がむずむずしてくる。商店街の歩道の上は思いもよらず汚らしいものである。ほこり、ごみ、泥、が雨水でぐちゃぐちゃになっている。その上を裸足で歩くと、そのぐちゃぐちゃが、指の間から足の甲の上にまでずるずるとはみ出してくる。ああ、こんな風に考えるだけで気持ちが悪い。<br />
　ある雨の日曜日に、子供達にせがまれてレンタルビデオ屋に行ったことがある。日曜だから親子連れが大勢来ている。そのかなりの親子連れが裸足だったのでうんざりした。家族全員が裸足で街に繰出してくるとはどういう神経なのか。山の中や、或いは美しい野原でなら裸足になるのは気持ちが良いだろう。しかし、どうして町中を裸足で歩くのか。しかも、雨の日に。<br />
　ところが私の連れ合いによると、雨の日の方が裸足の人は多いそうだ。その心はと言えば、雨の日に靴を履いて歩くと靴が傷む。布の靴なら洗わなければならなくなる。それが嫌なので、靴を履かず裸足で歩くのだと言う。それは、そうだ。足を洗う方が靴を洗うよりよっぽど楽だ。その説が正しいとするなら、オーストラリア人も大分けちくさいではないか。<br />
　ある時、日本の放送局のためにテレビの番組を作ったことがあった。私と一緒に番組を進行するためにオーストラリア人の女性を放送局が手配した。その女性は、日本での生活も長く日本語も達者なので私も気楽になって、何かの拍子にオーストラリア人が裸足で歩く話になった。すると、その女性は真顔で、オーストラリア人が裸足で外を歩くなんてことはしないと言う。海辺とか、リゾート地でならともかく少なくともシドニーの町中を裸足で歩くことはしないと言う。<br />
　そう言っている最中に、放送局の女性が道の反対側を歩いてくる人を見て声を上げた。若いこぎれいな身なりの女性が裸足で歩いて来るではないか。<br />
　あれ、あれ、と私達が喜んでいると、また反対側から今度は裸足の男が来る。<br />
　話はそれだけで済まず、その後、撮影のために車でシドニーの街をあちこち走りまわったのだが、その途中、何人もの人間が裸足で歩いているのを見かけた。私は意地悪なので、裸足の人間が来る度に、ほら、またいた、と騒ぐ。すると、番組を手伝ってくれたそのオーストラリア人の女性は憮然となる。それがまたおかしかった。彼女がどうしてオーストラリア人が裸足で外を歩いたりしないと強弁したのか、そのあたりの心理状態も考えてみると面白い。<br />
　とは言え、裸足で外を歩くより、土足で家の中に入るのはもっと嫌だ。考えてみると、家の中に入るときに履き物を脱ぐのは世界中で日本人と韓国・朝鮮人だけだろうか。<br />
　チャーチ・ポイントに二年半ほど住んで、後で述べる学校の都合で、１９９１年に、今住んでいるキャッスルクラグの家に越して来たのだが、今度の家は、二階の床が板張りになっている。寄せ木の板を張ったなかなか感じの良い床なのだが、良く見ると、表面に小さい丸いくぼみが無数にある。最初は何だか分からなかったが、考えてみて分かった。ハイヒールの踵の痕なのである。オーストラリアの女性は立派な体格をしている。その、立派な体躯を揺さぶりながらハイヒールで床を蹴って、かっ、かっと歩く姿は、町中で見ればさっそうとして格好良いかも知れないが、家の中では床に傷を付けて歩いたりしないで貰いたいと、日本人の私は思うのである。今、きれいに塗り直したその床の上を私や息子達は裸足で、連れ合いや、連れ合いの母親、それに娘達はスリッパを履いて歩いている。床の上のハイヒールの窪みを見た時に、文化の違いはこう言うところに表われるのであって、しかもその違いは決定的なものであることを考えさせられたのだ。<br />
　日本は道が舗装されていないから、家に入るときに履き物を脱がなければならないけれど、西洋では街がきれいに舗装されているから靴を脱がないでもいいのだ、などと言う人がいるが、それは見当はずれの意見だろう。オーストラリアでもヨーロッパでも、私はあちこちで農家を訪ねたが、彼等は畑から帰ったそのままの靴で家の中に入るのである。外のほこりや泥を家の中に持込むことに彼等は無神経である。勿論、戸口に靴拭きがあって家の中に入るときにはそれで靴の底をこすってはいるが、あんな物は気休めに過ぎない。西洋人は大昔、道が舗装などされていないときから土足のまま家の中に入っていたのだし、日本人は全ての道が舗装されている現在の都会に住んでいても、家の中に入るときには履き物を脱ぐのである。<br />
　気になるのはこちらの赤ん坊である。赤ん坊は家の中を這い回る。床を這ったその手をしゃぶる。ところがその床の上を大人は土足で歩き回っているのである。<br />
　日本では、手洗いに入るときには手洗い専用の草履やスリッパを履く。裸足のまま手洗いに入ったり、手洗いの履き物のまま部屋の中に入ったりしたらちょっとした騒ぎになる。ところが、西洋では手洗いで履き物を替えるなどと言うことはしない。大人が手洗いから出て来た靴で歩き回るその後を赤ん坊が這い這いする。その手をしゃぶる。私達日本人にとっては考えたくない光景だ。日本の乳児死亡率が極めて低いのはそのあたりのことも影響しているのかしら。</p>
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		<title>第一章　その４</title>
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		<pubDate>Sat, 28 Jun 2008 07:37:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　新しい環境への対応の仕方も子供によって個人差がある。
　長男の威陽（たけあき）は開けっ広げで、屈託のない性格なのですぐに友達が出来た。一番最初に英語で喋り始めたのは長男である。勿論、大変なでたらめな英語なのだが、何とか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　新しい環境への対応の仕方も子供によって個人差がある。<br />
　長男の威陽（たけあき）は開けっ広げで、屈託のない性格なのですぐに友達が出来た。一番最初に英語で喋り始めたのは長男である。勿論、大変なでたらめな英語なのだが、何とか意志を通じさせてしまうのには感心した。<br />
　長女の遊樂（ゆら）は気は強いのだが控え目に振る舞い、用心深く一歩一歩踏み出していく案配だったが、幸運なことにすぐ近くに大変活発な女の子の同級生がいて、その女の子を学校が、長女を助ける係に任命してくれたので、着実に学校に打ち解けていった。<br />
　問題は次女の遊喜（ゆき）だった。遊喜は、完全主義者で、誇り高い性質なので、長男のようないい加減な英語で友達と話したりすることが出来ない。<br />
　次女は小学校一年生で、最初のロカット・バレー・スクールという小学校に入り、三年生になるときに、後で語ることになるグレネオン・スクールに転校したのだが、ロカット・バレー・スクールにいる一年半はほとんど学校で口をきかなかった。学校では、次女は英語が全く駄目だと思われていた。<br />
　ところが、次章で書くが、後にグレネオン・スクールに転校すると、何と最初の日からべらべら英語で喋り始めたのだ。次女は自分がきちんと話すことが出来るまで話すまいと決めていたらしい。何と強情な娘なのだろう、と私と連れ合いは呆れ果てた。同時に、何と辛い生活だったのだろうと思うと胸が痛んだ。<br />
　次男の太陽は、三歳で来たので、あまりの環境の激変にこたえたらしく、一日中連れ合いにしがみついているので、皆に「コアラ太陽くん」などとからかわれていた。<br />
　で、あるとき私が次男に「太陽、お前どうしてそんなにお母さんにくっついてばかりいるの」と尋ねると、太陽は「だって、太陽、お母さんが大好きなんだもの」と言った、そこまでは良い。子どもが母親を好きなのは当たり前だ。しかし、次の一言が私を打ちのめした。太陽は言葉を続けて「それは、お父さんもついでに好きだけど」と言ったのである。<br />
　ああ、あんなに打ちひしがれたことは私にはなかったな。「ついでに」とはあんまりじゃないか。このとき私は固く決心した。次は絶対に女に生まれて、沢山子どもを産んでそれを全部自分で抱え込んで育てる。子どもを百パーセント自分のものにするのだ。</p>
<p>　連れ合いは、役所との交渉ごと、家の管理、買い物、それを全て英語ですると言う拷問じみた生活で疲れる。私は、日本を離れて仕事が上手く行くはずがなく、しかも、家庭の雑用を色々こなさなければならず、本当に困った。<br />
　更に、オーストラリアはヨーロッパから地理的に離れてはいるが西欧白人社会であり、１９７０年代のはじめまで白豪主義と言って白人しか移民を許さない白色人種主義を奉じていた国だから、アジア系の人間に対して差別心を持っている人間が少なからずいる。第二次大戦中日本軍の捕虜になったオーストラリア兵が残虐な取り扱いを受けたことで、　今でも強い反日意識を持っている人もいる。<br />
　だから、日本人として、企業の駐在社員は別として、企業に何の関係もない一個人が単純に安穏に住み込む環境ではなかったのである（１９８８年当時は日本のバブル経済の絶頂期で、日本の会社がオーストラリアの不動産を買いあさっていた。シドニーの有名どころのホテルの殆どが日本の企業の持ち物だったとは、日本経済が退潮一途の今となっては信じられないことである。当時、あまりに日本人が不動産を買いあさるので、オーストラリア人の間に日本に対する悪感情が特にクイーンズランドでは高まっていた。オーストラリア中の良いところを全部日本人に買われてしまうのではないかと恐慌を来す人たちもいたのである）<br />
　と言って、私達はオーストラリアで日本人だからという差別を受けた覚えはない。むしろ親切な扱いを受けて感激した事が多い。<br />
　しかし、中にはたちの悪い人間もいる。後で話すことになるが、私の連れ合いの甥のビザの件で、問い合わせに行った時にチャッツウッドの移民局で我々を担当した典型的なアングロサクソンの女係官は最悪だった。威張り腐って移民を見下す態度には、気が狂いそうなばかりに腹が立った。<br />
　私はあれほど醜い女性をこの人生の中で見たことがない。顔が醜い以上に心の醜さが体全体に溢れていた。<br />
　下品で醜い顔つきの荒々しい態度の女性係官に、人を人とも思わない見下した態度で意地悪をされたりすると、はらわたが煮えくり返るような思いがして、もう日本に帰ろうと思ったりする。日本にいればこんな目に遭わずにすんだのにと、情け無くなる。と言って、一度出て来たからにはそんなに簡単に帰るわけには行かない。<br />
　まさに私達は難民としてのきつい生活を始めたのである。<br />
　だが、それも、今となっては遠い昔の話だ。</p>
<p>　しかし、長男長女が高校に入った頃、最初にオーストラリアに引っ越して来た時期の話になったとき、何の屈託もなかったと思っていた長男が、「辛かったんだよ」と何かの拍子で言ったのが、私にはこたえた。本当に、難民は辛いものだ。</p>
<p>　そう言うこととは別に、日常的に私達が最初に苦しんだのは、英語だが、それについて、ジャパンプレスに書いた物を引用しよう。</p>
<p>《JP　１９９０年・十二月<br />
「母国語を失うことは母国の文化とはぐれること」</p>
<p>　外国で子供を育てる時に一番大きな問題は日本語教育をどうするかということだろう。<br />
　日本人学校に入れれば何の心配もないが、現地校に入れると色々と問題が起こって来る。<br />
　オーストラリアの学校だから、英語が分らないことには授業内容が理解出来ないのは勿論、日常生活も営めない。<br />
　私の子供たちも英語では苦労したようだ。<br />
　週に三回、家庭教師に来てもらい、学校でも正規の課目とは別にうちの子供たちだけ英語の特別授業を受け、時には校長先生が、校長室にうちの子供たちを呼んで校長先生自ら英語を教えてくれもした。それだけ力を尽しても、うちの子供たちの場合、一応、不自由なく学校生活を送れるようになるのに、一年半以上かかった。二年半経った今となっては、授業中に友人とおしゃべりをしすぎると先生に叱られるほどの英語力になつた。<br />
　英語が不自由でなくなって来ると、今度は厄介なことに日本語が不自由になって来る。<br />
　言語は文化のかなめであって、母国語を失うことは母国の文化とはぐれることだ。<br />
　私が四人の子供をオーストラリアに連れて来たのは、伸び伸びのんびりした教育を与えたかったからだが、日本文化からはぐれてしまっては何の意味もない。<br />
　それに私は文筆業である。私が書いた物を、将来私の子供たちが読めないし理解も出来ないと言う仕儀になったりしたらあまりに淋しい。そんな訳で、今、私と妻が頭を悩ませているのは、どうすれば子供たちの日本語能力を高められるかと言うことだ。<br />
　最近は油断すると四人の子供たちは家に帰って来てまで互いに英語で話している。その度に、「家の中で英語をしやべるな！」と私は怒鳴るのだが、怒鳴るだけでは問題は解決しない。<br />
実に難しい。》</p>
<p>　この回は切実な問題を二つ含んでいる。<br />
　先ず第一に、外国語の習得が如何に難しいかと言うことだ。<br />
　オーストラリアに引っ越して来たとき、長男、長女は小学校五年生、次女は一年生、この三人が英語をある程度まで不自由無く理解出来るようになるまで二年以上掛かった。まだ頭の柔らかい年頃でそれほど掛かるのである。しかも、それでも、生まれつき英語を母国語としているオーストラリア人の子供には遥かに及びも付かない英語力である。学校の授業がようやく理解できる程度だったのではないだろうか。<br />
　この、自分の子供たちの経験を通じて、私は、日本人は外国に留学することを簡単に考えすぎていると思うようになった。<br />
　自分の子供を外国に留学に出す人たちは外国語を習得する難しさを全く考えていないことが多い。外国に行って一年も過ごせば外国語は読み書きも出来るようになると思い込んでいる。勿論、生まれつき外国語を習得する能力の優れた人もいるだろうが、それは少数で、大多数はうちの子供たちのように二年も経ってようやく学校の授業について行ける程度の外国語能力を付けるのが関の山なのである。<br />
　ましてや、大学生になって初めて外国に留学したのではもっと辛い。英語の習得には小学生の頃より時間が掛かるというのに授業内容ははるかに難しい。日本にいても学校の授業を理解するのは難しいのに、それを、ろくに理解できない外国語で大学の授業を受けてそれでどうして授業について行けようか。</p>
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		<title>第一章　その３</title>
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		<pubDate>Wed, 18 Jun 2008 03:01:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　そして１９８８年５月２０日、私達家族はシドニーに越して来たのである。
　チャーチ・ポイントはシドニーの中心部から、ハーバーブリッジを越え、北に車で三十分ほどのところに有るピットウォーターと言う南北に非常に細長く伸びた深 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　そして１９８８年５月２０日、私達家族はシドニーに越して来たのである。</p>
<p>　チャーチ・ポイントはシドニーの中心部から、ハーバーブリッジを越え、北に車で三十分ほどのところに有るピットウォーターと言う南北に非常に細長く伸びた深い湾の一番奥に位置している。静かな住宅街だが、目の前に一つ、歩いて十分ほどのところにもう一つヨット・ハーバーがあり、五分ほどのところに湾内あちこちに行くフェリーの乗り場があるようなところで、リゾート地に近い雰囲気を持っている。<br />
　私の家の目の前は非常に浅い海で、沢山のヨットやボートが停泊している。湾とは言え、すぐ前にワシントン島という島が有るので、私の家の窓から湾の出口は見えずまるで湖に面しているように見える。<br />
　しかし、その湾に面したベランダに立つと日本では考えられない多数の野生の鳥がやって来て餌をねだり、周囲に自生している様々な野生の花が放つ香りで恍惚とすると言う状態だった。シドニーの中心部から四十分離れただけで、これだけ野性味を味わえるとは予想もしなかった。裏庭には、オーストラリア独特の有袋類の一種であるポッサムの一家が住み着き、ブルータングと言うトカゲの家族ものんびり姿を現した。<br />
　何から何まで、横須賀市秋谷の風景とはまるで違った。<br />
　私達は家族は、初めて、野生動物と一緒に暮らすという生活形態を学んだ。<br />
　ブルータングと言うトカゲは愛嬌物で、舌が青いのでブルータングというのだが、初めて私の家の裏庭の茂みから頭をぬっと突き出した時には、とんでもない大蛇が現れたと思った。最低で、二、三メートルは有る蛇だと思った。頭だけをみると、凄まじい大蛇なのだ。ところが、茂みから更に出て来ると、頭のすぐに脚が見える。脚の有る蛇は存在しない。さらに、体が続いて出て来ると、脚はもう一組あり、しかも後ろの脚が終わると胴体も突然終わる。太い胴体とでかい頭と恐ろしげな顔のくせに、何と唐突に三十センチほどの短い体で終わるのである。<br />
　日本で、一時話題になった「つちのこ」などもこんな生物だったのではないかと私は思う。<br />
　私の家のテラスに飛んでくる野生の鳥類は十一種類以上。野生動物に餌を与えてはいけないとされているが、私の家の周りの人間はそんなことを一切無視して、自分の家に野生動物が来てくれることの嬉しさゆえに、どんどん餌を与えていた。<br />
　オーストラリアに住んで二十年になるが、野生動物とのつきあいは極めて大事である。私達は夜の間にリンゴを裏庭に置くのを決まりとしていた。朝になるとリンゴは消えている。ポッサムが夜の間にしっかり食べて行くのである。<br />
　極めて厳格な自然動物保護主義者（私の長女のような）は絶対に野生動物に餌をやってはいけない。人間の食べる物を与えると、野生動物は添加物などの害を受けると同時に、自分たちで餌をとると言う基本的な行動を失うから、絶対に自分の家にやって来る鳥や動物に餌を与えるなと、それはそれは、怖い顔で主張する。その理由もわからず、やたらと野生動物に餌を与えるのはアジア人に多いのだ、と言われると、こちらもかちんと来る。もともと、自然の大宝庫だったオーストラリアを植民地にして勝手放題いわゆる開拓したのは、おめえらだろうが。それを、何を今更、格好付けてやがんでえ、とぼけんじゃねえよ、と私は思う。<br />
　で、今でも私の連れ合いは、家にやって来るブッチャーバードと言う日本で言えばモズに近い兇暴な鳥を「私のかわいこちゃん」と呼んで毎日餌をやっている。私の家ではひき肉は、肉のかたまりを買って来てそれをフードプロセッサーにかけて自分で作る。売っているひき肉は何が入っているのか分からないし、第一まずいからである。ただ、鳥にやる肉だけは肉屋で買ってくる。それに、肉だけでは野生動物の栄養上問題が有ると言うので、なんだか訳の分からないビタミンやミネラルの混じった粉末をまぶして与える。（鳥の練り餌に使う粉末だということだ）<br />
　やらないと、窓ガラスに体当たりして要求するし、テラスへの扉を開けておくと、食堂に入ってきて、椅子の背もたれにとまって、凄まじい大声で鳴いて催促する。連れ合いは、一日中鳥に追われているような感じである。</p>
<p>　それはともかく、チャーチ・ポイントに越して来て、子供たちは、家から歩いて十分ほどのところに有る「ロカット・バレイ・スクール」に入学した。ロカットとはビワのことで、昔その辺りにはビワの林が有り、そこからビワをシドニーの市場に売りに出していたと言う。今は、完全な高級住宅地になっている。<br />
「ロカット・バレイ・スクール」はイギリス系のアングリカン・チャーチと言うキリスト教の会派に属する学校だが、入学資格がキリスト教であることもないし、週に何回か聖書を読んだりする時間が有ったようだが、なにしろその当時の私の子供たちは、まるで英語など出来ず、ちんぷんかんぷんだったのに、それで別におとがめもなかった。その宗教的な締めつけのないところが、無宗教で育ててきた私達にとっては有りがたかった。<br />
　私の長男長女は双子で、日本では六年生になったばかりだったが、オーストラリアの学制では、十月に学年が終わり、次の年の二月から新学期が始まり上の学年に進む。五月に来て、十月までで小学校を終わり、次の年の二月に中学に進むのは余りにきつすぎるのではないかと言う校長の意見で、長男長女は一年遅らせて五年生の学級に入ることにした。<br />
　当時、日本の経済はバブルの絶頂で、シドニーにも日本の会社の駐在員が六千人以上いたが、さすがに市の中心から四十分も離れると日本人の姿はなく。私の子供たちが最初に登校した日、「初めての日本人だ」と珍しがられ大勢の生徒達に取り囲まれたという。<br />
　あとで、仲良くなった子供にその日のことを聞くと、全校生徒がうちの子供たちを取り囲んだので、自分は、よく見ることが出来なかったと言った。それほど、日本人が珍しい地域だったのである。今でも、あの辺りに日本人だけでなく、アジア人の姿はみない。アジア人は市の中心部近くと南部、ハーバーブリッジの北側チャッツウッド地域に偏在している。<br />
　この、チャーチ・ポイントで我々はオーストラリアでの生活の第一歩を踏み出したのである。<br />
　暮らし初めて最初の二年ほどは本当に辛かった。最初に、「教育難民」などと言ったが、ああ、本当に我々は難民なのだと何度も本気で落ち込んだこともある。<br />
　分からないことばかりで、うろたえる。先ず、第一に言葉だ。次ぎに、オーストラリアの生活習慣だ。子供たちに学校でどうすれば良いのか教えようにも、私達には見当もつかない。シドニーに来て最初に子供たちを入れたロカット・バレイスクールは、私達の子供が学校創立以来初めての日本人だと言うことで、大変親切にして貰ったが、初めての日本人と言うことは全然助けになる日本人の先達がいないことでもある。<br />
　連れ合いは不自由な英語で学校の先生や事務の女性に細々としたことをいちいち尋ねなければならない。みんな親切に面倒を見てくれたが、私達の方にとんちんかんな勘違いや間違いがあって、滑稽な間違いをしたことも少なくない。<br />
　その両親の自信の無さが、てきめんに子供たちに響く。<br />
　子供たちも不安一杯で毎日を過ごしているのが良く分かった。新しい学校の制服を着て、オーストラリア風の鞄を背負って、連れだって学校に向かう子供たちの後ろ姿は頼りなげで、胸を突かれるものがあった。<br />
　どうして、こんな無謀なことをしたんだろうと、私は自分の無鉄砲さを今更ながら後悔したりした。</p>
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		<title>第一章　その２</title>
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		<pubDate>Tue, 03 Jun 2008 23:47:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　私達は最初シドニーの中心部から車で四十分ほどのチャーチ・ポイントと言う所に住んだ。
　それ以前、１９８７年の１０月に、私はシドニーでひと月ほどキッチン付きの安いホテルを借りて、住む家を探した。その際に日本の知人に三井物 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　私達は最初シドニーの中心部から車で四十分ほどのチャーチ・ポイントと言う所に住んだ。<br />
　それ以前、１９８７年の１０月に、私はシドニーでひと月ほどキッチン付きの安いホテルを借りて、住む家を探した。その際に日本の知人に三井物産のシドニー支社の方を紹介して頂いた。当時三井物産のシドニー支社は社員が多く、社員のための不動産を管理する部門もあった。そこの大西さんと言う方に色々便宜を図っていただいたのだが、あるとき、三井物産を中心として幾つかの会社の駐在員の方達の釣りの会に誘っていただいた。私は釣りが好きなので、喜んで参加したが、その釣り場はシドニーの北端にあるピット・ウォーターと言う細長い湾で、その湾内で釣りをするのである。<br />
　今は全然釣れなくなったが、当時は船を出せば鯛が入れ食いで厭になるほど釣れた。<br />
　その時に船を出した船着き場があったのがピット・ウォーター湾沿いのチャーチ・ポイントと言う町だった。道の横はすぐに海で、その海の美しさ、周囲の景色の美しさ、町並みの美しさ、こんな美しいところが世の中に有るのか。私はほれぼれとして住むならここだと決めたのだ。<br />
　私が大西さんに住む家を探していると言うと、大西さんは「うちの会社にアルバイトで来ているオーストラリア人の女性の父親が確か不動産業者だ。ちょっと聞いてみましょう」と言った。<br />
　その女性は、ララ・マックドナーといい、キャンベラのオーストラリア大学で日本語を専攻して、卒業したばかりで、背が高く素晴らしい美人だった。<br />
　高校の時に長崎の高校に半年ほどホームステイしたというが、それと大学の授業だけでそれほど日本語を流暢に話せる事に私は驚いた。（私達日本人は外国語習得するためにいかに努力しても不可能であることを体験して気がめいるが、外国人は簡単に日本語を習得してしまうのである。脳の構造に日本人は何か欠陥が有るのではないかと私は思ってしまう）<br />
　ララは早速自分の父親、デニス・マックドナーを紹介してくれた。デニスは私より三歳年上で、アイルランド系であるが典型的なオージーで、快活・陽気・冗談好き・ついでに大変感傷的と言う一緒にいて実に気持ちの休まる人物だった。偶然、デニスは私が住みたいと願っているチャーチポイント辺りがじぶんの商売の領域で、願ったり適ったりと言うことで、デニスにおんぶに抱っこで、私は住む家探しを始めたのだ。<br />
　最初は経済的な問題も有り、オーストラリアに長居する気もなかったので、借家を探したのだが、その当時の私の家の家族構成からすると借家は無理だとわかった。<br />
　当時の私の家の家族構成は、私達夫婦、四人の子供、連れ合いの母親、の七人である。<br />
　オーストラリアでも、七人家族は通常から外れた大家族であって、それにふさわしい借家など有る訳が無い。借家を経営する人は、小人数の家族構成にぴったりの家を持ってそれを貸すのが一番効率が高い。<br />
　そのような大家族向けの借家は殆どと言って良いほど存在しないことが分かった。<br />
　となると、家を買うしかない。だが、これは大変な難題である。日本にローンつきの家を持っているうえに、さらに、オーストラリアでローンつきの家を買うのか。こんな、馬鹿馬鹿しい無駄は他に考えつかない。<br />
　しかし、やると決めたらやらねばならぬ。<br />
　そこで、考えたのが、借金をして家を買っても、オーストラリアを出るときに売り払えば、借家の家賃と同じ程度の出費で済むのではないか、と言うことだ。そう考えて、更に無理な借金を重ねて家を買うことにした。<br />
　デニスの案内であれこれ見て回って、チャーチ・ポイントの海に面した家を発見して、購入することにした。<br />
　その後、デニスとは一家ぐるみのつきあいになり、デニス一家はオーストラリアのことを知らない私達のために色々な手助けをしてくれた。<br />
　子供たちの学校を探してくれて、入学の手続きをしてくれたのも、デニス夫人、ジェーンである。デニス一家の助けがなかったら私達はオーストラリアでこんなに楽々と生きて行くことは出来なかっただろう。<br />
　外国に住む場合に、助けになってくれる現地の友人をその土地に持つことは大事なことである。日本の会社の駐在員はたいてい三、四年で日本へ帰ってしまう。やはり、オーストラリアならオーストラリア人の友人が必要だ。私達は、シドニーに引っ越してくる前に既に友人を作ることが出来て、非常に幸運だった。</p>
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		<item>
		<title>第一章　その１</title>
		<link>http://kariyatetsu.com/kosodate/294.php</link>
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		<pubDate>Tue, 20 May 2008 01:47:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[子育て記　第一章
（１９８８年から１９８９年まで）
　私達は１９８８年５月２０日、シドニーに引っ越して来た。
　引っ越して来たと言っても、これは隣町に引っ越すのとは訳が違って、実に様々な障害があった。
　一番大きな問題は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>子育て記　第一章<br />
（１９８８年から１９８９年まで）</strong></p>
<p>　私達は１９８８年５月２０日、シドニーに引っ越して来た。<br />
　引っ越して来たと言っても、これは隣町に引っ越すのとは訳が違って、実に様々な障害があった。<br />
　一番大きな問題は、引っ越す先が日本国内ではなく外国であること、そして、経済的事情である。<br />
　私の職業は物書きで、しかも日本語でしか書けない。私にとっての物書きとしての市場は日本しかない。その私が日本を離れることは大変にまずいことだ。職を失うことを意味する。<br />
　ただ、有り難いことに、技術の進歩が目ざましく、ファクスがあれば世界中どこからでも原稿を日本の出版社に送ることが出来ることはそれ以前に十分経験していた。１９８０年代の初めまでは、例えばフランスなどに行くとファクスが中央電話局にしかなく、ホテルから中央電話局まで行かなければならなかったし、京都でもやはり電話局まで行かなければならなかった。香港の町で、ファクスを探し歩いてへとへとになったこともある。しかし、急速にファクスは普及し、大抵のホテルには設置されるようになり、わざわざ電話局まで行く必要が無くなった。<br />
　しかも、そのうちに、携帯型のファクスが出来たので、私の行動半径は大いに広がった。電話回線さえあれば、携帯型のファクスを使って世界中から原稿を送ることが出来るようになったのだ。<br />
　当時の私はホテルに入ると、先ず最初にその部屋の電話回線の取り入れ口をねじ回しやナイフなどを使って開けて、壁の中から電話線を引き出した。<br />
　今でもヨーロッパに行くと、壁についている電話機用のコンセントの型は国によって違うが、当時はそのコンセントすらなく、電話線は壁の取り入れ口から直接壁の奥に繋がっていることが多かったので、そうするしか他に手は無かったのである。電話線は何本かの線の束になっていて、どの線がファクスに使えるか調べなければならない。自分で持って来た携帯型のファクスに鰐口クリップでつないでみて、発信音が聞こえればそれで良し。ファクスは使える。<br />
　その作業が済むとほっとしたものである。そんな私を見て連れ合いは「まるで００７ね」などとからかった。<br />
　で、私はファクスさえあればオーストラリアからでも原稿を送ることが出来るから、当分はしのげると考えたのである。<br />
　だが、漫画の仕事は厳しいもので、読者の人気が落ちると連載を打ち切られてしまう。当時「美味しんぼ」はまだ読者の支持があったが、それがいつまで続くか全く分からなかった。「美味しんぼ」が終われば仕事がなくなる。そうなったら、どうして食べて行けば良いのか分からない。新しい仕事を始めるためには準備がいる。「美味しんぼ」が終わると決まったらすぐに他の仕事を探さなければならないが、オーストラリアにいてはそんなことは出来ない。<br />
　この生活の不安というものは大きいものである。夜中にふと目が覚めて、仕事が無くなった時の事を考えると、とても寝てはいられないような気持ちになったりする。<br />
　その当時私は漫画の原作の仕事を始めて十年以上経っており、自分では十分稼いだつもりになっていた。で、連れ合いに私は幾ら財産を持っているかと訊ねたら、連れ合いの答えは「今住んでいるこの家だけ。それも、まだローンが沢山残っている」と言う。私は驚いて、私は随分稼いだじゃないか、と言うと、連れ合いは「稼いだお金は全部哲ちゃんが食べちゃった」と答えた。<br />
　確かに私は美味しい物を食べるのが大好きで、他の物にはひどくけちなのに、食べ物やワインについては全く経済観念を失ってしまう。美味しい物を食べに外国に行くことも平気だった。それでは、どんなに稼いでもお金は残らない（おかげで、「美味しんぼ」を始めて数年間は、全く取材をせずそれまでの自分の経験だけで書くことが出来たのだが、そんなこと何の自慢にもならないな）。<br />
　そんな経済状況でオーストラリアに二、三年暮らしてみよう、などと言うのは無茶な話だが、私の持って生まれた性格で、無茶と分かるとなおのこと突っ走らないと気が済まない。<br />
　駄目になったら、それまでだ。その時は家を売ればローンの残りを差し引いても半年やそこらは生きて行けるのではないか。その間に新しい仕事を何とか探そう。とにかく、やりたいことはやってしまえ、と腹を括った。<br />
　勿論、それ以前に夫婦で良く話し合ってはいたが、そんなお金の心配がある上に、オーストラリアなどと言う見知らぬ国に行くことで、連れ合いはひどく心細かったのだろう。シドニーに来てからもしばらくの間、心配気で、表情が仲々柔らかくならなかった。<br />
　今でも私は、最初にシドニーに着いた最初の日、私の決めた家に向かう車の中で、三歳の次男をしっかり抱え不安気に窓の外の景色を見ていた連れ合いの表情を忘れられない。その表情の記憶が、いまだに私を苦しめる。しかし、それも私のように日本の常識に合わない男と結婚した連れ合い本人のせいだ、と私は考えることにした。</p>
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		<title>長い前書き　その６</title>
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		<pubDate>Fri, 09 May 2008 04:09:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　ところが、私が、オーストラリアに引っ越すと言ったら、ある知人が「逃げる気か！」と言った。
　日本の現状に、自分自身何ら行動をとることなく、自分だけ楽なところに逃げるのか、そう詰問されたのである。
　私は、敢えてそれに答 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　ところが、私が、オーストラリアに引っ越すと言ったら、ある知人が「逃げる気か！」と言った。<br />
　日本の現状に、自分自身何ら行動をとることなく、自分だけ楽なところに逃げるのか、そう詰問されたのである。<br />
　私は、敢えてそれに答えて言った。<br />
「そうだ、私は逃げる」<br />
　外国に逃げるのが楽をする道だなどと言うのは飛んでもない誤解だ。子供を連れて言葉も環境も全く違うところへ行くのである。物見遊山に行くのではない。しかも、こんなことをしても果たして上手く行くかどうかも分からない。勝算は全くない。楽なわけがない。<br />
　おまけに、そうすることによって、失うものは大変に大きい。みんなと一緒に流されて生きた方がどんなに楽か分からない。逃げ出すことも私にとっては日本の教育制度に対する戦い方の一つなのだ。<br />
　日本の教育制度を改善する努力をするのが当然だろうに、外国に逃げ出すのは卑怯だ、と言われても私はひるまない。<br />
　それは、今の日本の教育制度に満足していたり、我慢できたりする人に、私の抱いている切羽詰まった気持ちは分かって貰えないことをたっぷり思い知らされてきたからだ。<br />
　例えば、私の子供たちと同年齢の子供を持っている人たちと日本の教育制度の話になると、ほとんど全ての人が何とかしなければならないと言う。<br />
　ところが、そう言っておきながら自分達の子供はせっせと塾に通わせる。そして、自分達の子供が望み通りの学校に合格すると、日本の教育制度も悪くない、などと言い出す。受験勉強程度の試練を乗り越えられないような子供はどうせろくな人間にならない、などと言い出だす人も少なくない。<br />
　自分の子供が、一流大学に入るとそれで有頂天になる。その上、大企業や中央官庁に就職すると、中小企業や、商店で働いている人間に対して優越感を抱く。<br />
　日本の教育制度に本気で立ち向かおうと考えるのは、私のような変わり者か、あるいはこの教育制度で立ち上がれないような傷を負った子供を持つ親だけだ。<br />
　大半の親たちは、自分の子供がある程度の学校に入れれば、もう日本の教育制度のことなどどうでも良くなる。それどころか、成績が中以上の子供を持つ親たちは、この受験勉強一辺倒の教育制度を望ましいという。それは、自分達の子供が他の子供たちより、優位に立てるからである。<br />
　大半の親たちがそんな態度であるのが今の日本の社会なのだ。みんな、我慢してるのに、どうしてあなただけ我慢できないの、と言われたことだってある。<br />
　しかも、１９８０年代に入って、日本の社会は急速に体制服従的になってきた。<br />
　誰もお上や、大企業の言うことには逆らわないのだ。<br />
　就職希望の学生たちが会社を巡って歩くその姿を見れば、若い世代の意識まで体制服従的になっているのが良く分かる。<br />
　私達の世代のものには思いも寄らないことだが、今時の学生たちは、会社に気に入られるように、髪を短く刈り、地味な「リクルート・スーツ」と称される背広を着て会社を回る。<br />
　そう言う学生たちを見ると情け無くなる。入社する前から、会社の命令には絶対従います、と媚びを売ってどうするんだ、と背中をどやしつけてやりたくなる。若くして、既に心朽ちたり、とはこの事かと思う。<br />
　要するに、大半の日本人は今の教育制度で満足している。少なくとも我慢できるのだ。<br />
　私に「逃げるのか！」と言った知人も、自分の子供たちが良い学校に進んでいることで満足している。<br />
　拗ねた言い方を敢えてするならば、みんなが満足したり、我慢できたりしているのに、私一人我慢できないのは私が悪いのだろう。<br />
　こういう状態で私に逃げ出さずに何かしろと言われてもそれは無理だ。私は厭だ。お断りだ。<br />
　それに、私が日本にとどまって、教育制度の改善を考えている他の人たちと協力しあって効果的な活動をなし得たとしても、日本の教育制度が五年や十年で改善される筈はない。<br />
　今の日本の教育制度は日本の社会の要請によって構築されたものだ。社会が変わらなければ、教育制度も変わるはずがない。<br />
　であれば、うちの子供たちにはとても間に合わない。<br />
　私に残された道は、「教育難民」を選ぶしか無かったのだ。<br />
　そして、そこまで私を駆り立てたのは、私が経験した、中学・高校で生活だった。あんな思いを私の可愛い子供たちに絶対にさせたくない。結局その思いが一番強かった。</p>
<p>　ところが、私が日本脱出を出来ずにいる間に、アメリカの社会がひどいことになってしまった。クラック、と言うコカインの誘導体が社会に広まって、十四五才で、既にドラッグの売人になって金のネックレスをぶら下げ、ピストルも持ち、十代のうちに殺されてしまう、などと言う話しを頻繁に聞き、特にサンタ・バーバラ辺りは、非常に危険になったという。<br />
　冗談じゃない、日本の受験勉強一辺倒の教育体制も嫌だが、そんなドラッグと暴力のまん延する社会に連れて行くわけには行かない。<br />
　さて、困った、と思ったとき、そうだ、南半球という手があった、とひらめいた。高校の時に非常に進んだ福祉制度を持っていると学んだオーストラリアの名前が頭に残っていた。<br />
　それで、試しに私ひとりで来てみたら、素晴らしい環境だ。私は、不思議な第六感のようなものが働く経験を今までの人生で何度かしているが、オーストラリアの土地に一歩踏み出したときに、その第六感が働いた。どうやら、オーストラリアとうまが合いそうだ。ここなら、のんびり子育てが出来そうだ、と心に響くものを感じた。私は自分の第六感に従って、アメリカをやめてオーストラリアに引っ越すことにした。<br />
　そこで、オーストラリアの目ぼしいところを、ケアンズ、ブリスベン、ゴールドコースト、シドニー、メルボルン、アデレード、パース、と見て回った。最後に、大変に充実した中華街とフィッシュマーケットがあるのと、明るいさわやかな雰囲気と、日本への交通の便の良さと、そんなことを考えてシドニーに決めた。<br />
　それから色々のことがあって、長女、長男が六年生になった１９８８年五月にシドニーに引っ越して来たのである。</p>
<p>　それが、私達がシドニーに引っ越して来るまでの経緯であるが、最初に書いた通り、二三年のつもりが、二千八年の五月でまる二十年を越える。これは、全く私の計算外のことになってしまった。<br />
　一体どうしてこんなことになったのか。<br />
　それを、これからお話ししたい。</p>
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		<title>長い前書き　その５</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Apr 2008 01:38:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　私は大企業や中央官庁に勤めることを悪いことだとは思わない。だが、大企業や、中央官庁に勤めることだけが一番価値の有る人生であるとは思わないのだ。他にももっと価値のある人生があるはずだ。ましてや、それに失敗したから劣等感を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　私は大企業や中央官庁に勤めることを悪いことだとは思わない。だが、大企業や、中央官庁に勤めることだけが一番価値の有る人生であるとは思わないのだ。他にももっと価値のある人生があるはずだ。ましてや、それに失敗したから劣等感を抱くなどと全く下らないと思う。（実際にそんな下らない劣等感を抱く人間がいるから情け無い。）<br />
　しかし、小学校から、受験勉強の路線に叩き込まれてしまったら、その他の価値観を持つことが出来るだろうか。<br />
　そんな風にして育った子供は一体どんな人間になるのだろうか。第一、そんな子供は幸せだろうか。<br />
　受験受験で追い捲られる学校生活が楽しいわけがない。楽しくないから、いじめや登校拒否が起きるのではないか。挙げ句の果てに頭でっかちで、心が空っぽの人間になってしまうのではないか。<br />
　私はその様な硬直した価値観、他人の決めたお仕着せの価値観で自分の人生を決めることは、うちの子供にして貰いたくないと思っている。自分自身の価値観は自分で見つけて貰いたい。自分の幸せは、自分で演出して貰いたい。それでこそ、価値ある人生ではないだろうか。<br />
　しかし、現状の日本の教育の中においておけば、たった一つの価値観に染め上げられて身動き出来なくなる。ではどうすれば良いか。<br />
　ひっぺがすことだと私は思った。日本の教育制度から一旦ひっぺがしてやること。ひっぺがす以外に、たった一つの価値観の呪縛から逃れられないと私は思った。<br />
　一旦日本の教育制度からひっぺがしてしまえば、受験の階梯をよじ登って大企業や中央官庁にたどり着く進路には二度と戻れない。となると、いやでも自分で自分自身の価値観を見出してその価値観に基づいた人生を歩むしか道はなくなるだろう。<br />
　しかし、そんなことをすれば、うちの子供たちは大企業や中央官庁に勤めるのは難しくなる。いや、難しいどころか、事実上不可能になるだろう。それはある意味では、子供たちから機会を奪うことである。それはまずいのではないか。親の横暴というものではないのか。私と連れ合いは大いに迷った。<br />
　迷ったが、結局、子供たちを日本の教育体制からひっぺがすことにした。<br />
　人間、生まれてくる親は選べない。どんな親の子供として生まれてくるか、それは全く運命である。であれば、うちの子供たちには、大企業や、中央官庁に勤める機会を奪われるのも、私のような父親の子供として生まれてしまった運命と諦めて貰おう。<br />
　その代わり、人生の楽しさを思いきり味わう生き方を教えてやる。それで、勘弁して貰おう。<br />
　そう、決めた。<br />
　さて、ひっぺがすと言っても簡単なことではない。ひっぺがすのには何が一番良い方法か。学校にそのまま行かせていれば、否応なく日本の教育制度に乗ることになる。と言って学校に行かせないわけには行かない。<br />
　それなら、外国に一旦出るのが一番良いと思った。日本にいては色々未練が残って、上手くひっぺがすことが出来ない恐れがある。<br />
　自分の国の教育制度が気に入らないから外国に逃げ出すというのはひどく不幸なことである。不幸ではあるが、色々考えてもそれ以外に道はなかった。<br />
　取りあえず、二三年、どこかに逃げ出そう。二三年経ったら帰って来て、世の主流から外れてはいるが、自分自身で決めた価値基準によって生きて行く生活を始めさせよう。そう決心した。<br />
　ただ、私達は子供たちに説明は十分にした。私が日本の教育制度に抱いている考え。本当の勉強とはどう言うものか。何故外国に逃げ出さなければならないのか。そのあたりの私の思いを何度も繰り返し語って聞かせた。<br />
　子供たちは本心から納得した訳ではないだろうが、文句を言っても、私に、「商社に勤めている人のことを考えてご覧。海外転勤なんか当たり前のことだ。そうなったら家族全員で外国に行くんだ。それと同じじゃないか」などと押し切られてしまうので、終いには諦めてしまい、さしたる抵抗は示さなかった。しかし、子供心に、外国に出ることはひどく心細いことだったようだ。仲の良い友人たちとも離れてしまうのだから、ずいぶん辛かったことだろうと思う。世間様と同じ考えを持てない男を父親に持った運のつたなさと諦めて貰うしかない。<br />
　自国での難を避けるために外国に逃れる人間のことを難民と呼ぶ。であれば、私達は日本の教育制度という難を避けるために外国に逃れるのだから「教育難民」と言うことになる。そんな訳で私達は「教育難民」になったのだ。</p>
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		<title>長い前書き　その４</title>
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		<pubDate>Mon, 21 Apr 2008 03:06:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>雁屋 哲</dc:creator>
				<category><![CDATA[雁屋哲のシドニー子育て記]]></category>

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		<description><![CDATA[　私は、中学と高校の時のことを思い出す度に、もう一度ああいうことを繰返さなければいけないのであれば、二度と生まれて来たくない、と、今でも、そう思っている。
　思い出すだけで、心に紙やすりをかけられるような気持ちになる。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　私は、中学と高校の時のことを思い出す度に、もう一度ああいうことを繰返さなければいけないのであれば、二度と生まれて来たくない、と、今でも、そう思っている。<br />
　思い出すだけで、心に紙やすりをかけられるような気持ちになる。<br />
　だから、私の長男長女が小学校に入った時から、私は、連れ合いに、「このまま日本にいたのでは、家の子供たちも受験勉強に追いやられることになる。それは、いやだから、その前に外国に脱走しよう」と言った。私は、自分の経験と自分の思いをじっくりと連れ合いに話したので、連れ合いも、「そこまで言うのなら」と賛成してくれた。<br />
　当時、私は漫画の原作を書き始めて十年以上経っていて、「もう、漫画は十分だ」と思って、もう一度大学に入って勉強し直そうと考えた。とは言え、日本の大学に入るのも面白くないから、アメリカの大学に行こうと思い、アメリカの東部と西部をあちこち見て回った。最後に、カリフォルニアのサンタ・バーバラに「カリフォルニア大学、サンタバーバラ分校」を見つけ、気候も町の雰囲気も良さそうだし、私の勉強したい科目もあるから、そこに決めて、住む家まで探して回った。<br />
　ところが、その時ビッグ・コミック・スピリッツ誌で始めた「美味しんぼ」が予想もしない好評を得てしまった。当時のスピリッツ誌の編集長は、私が雁屋哲の名前で１９７４年から「少年サンデー」誌に「男組」と言う漫画を書く機会を与えてくれた人間で、私が漫画の世界で食べて行けるようにしてくれた恩人である。<br />
　当時のスピリッツ誌は月二回刊だった。編集長は私に言った。「週刊誌を立ち上げるのが自分の夢だ。今なら、『美味しんぼ』が当たっているからスピリッツ誌を週刊誌に出来る。今、お前にいなくなられたら、週刊誌化することが難しくなる。頼むから、あと二年待ってくれ」<br />
　自分の恩人にそう言われてはことわるわけには行かない。私はアメリカ行きは延期して「美味しんぼ」に専念することにした。<br />
　そうこうするうちに、長男長女が五年生になるときに、連れ合いが私に言った。「もう五年生よ。このままだったら、近くの公立へやるか、私立へ入れたかったら受験勉強を始めなくては駄目よ」<br />
　それを聞いて、私は震え上がった。これは、えらいことになった、何とかしなくてはならない。このままでは、私が過ごしたような、無残な中学高校生活を子供たちが過ごすことになる。<br />
　私はとにかく受験勉強主体の日本の教育制度に自分の子供たちを乗せたくない。中学から大学まで一貫教育をする私立学校もあるが、そこにいれるためには小学生に受験勉強をさせなければならない。それは、私の方針に反する。<br />
　とにかく日本の教育体制から一度子供たちを引っぺがそう。二三年海外にいて帰って来たらもう子供たちは日本の教育体制には戻れない。それから先のことは、その時に考えよう。とにかく、早く脱出しよう。逃げるしかない。<br />
　日本の教育体制から逃げ出す、だから私は自分たちを「教育難民」と言ったのである。<br />
　そもそも、私は日本の主流を占める価値観が気にいらない。<br />
　日本では全労働者の七十五パーセント以上が何らかの形での雇用労働者である。規模の大小は別にして、何らかの組織に属して給料を貰っているわけである。（二千七年現在、全雇用労働者の二十八パーセントが非正規雇用者、要するに正規社員になれず、属する組織もない、と言うことだが、１９８８年当時の日本はそうではなかった。二十年前に、日本がこれだけ衰退すると誰が考えただろうか。恐ろしい話しである）属する組織も色々あるが、中でも大企業、中央官庁で働くのが一番地位が高いとされている。従って、みんな大企業、中央官庁に勤めたがる。<br />
　しかし、いわゆる一流大学を卒業しなければ、大企業、中央官庁には就職出来ない。<br />
　大学に進学できるかどうかは、中学に入るときに既に決まってしまうのが現状だと言う。高校受験の名門中学に入ることが出来れば、大学受験の名門高校に入ることが出来る。それが大学受験の成功につながる。物事は順に行っている。<br />
　だが、逆に、高校受験の実績の低い中学に入ったら、そこでおしまい。一流大學はもちろんのこと、大学進学自体が難しくなると言う。<br />
　だから、どうしても小学生の受験勉強が激しくならざるを得ない。<br />
　高校生になって受験勉強をするのも辛いのに、まだ、心も体も幼い小学生に受験勉強を強いる。どうして、こんなむごいことをするのだろう。<br />
　東京だけでも数多くの小学生相手の進学教室がある。進学教室には毎日曜日に大勢の小学生達が模擬試験を受けにやってくる。その小学生達の群を見ていると私は気持ちが暗くなってしまう。一旦あの群に入ってしまったら、模擬試験で良い点を取ること以外のことを考えられなくなるだろう。夜遅くまで勉強し、塾に通い、日曜日にも休むことが出来ず、進学教室に模擬試験を受けに行く。そんな生き方を続けていれば、ただ一つの価値観しか持てなくなる。<br />
　いい中学、いい高校、いい大學を卒業して、大企業か中央官庁に勤めること、それが一番価値の有る人生ということになってしまう。そして、それに失敗すると劣等感に苛まれる人生を送ることになる。</p>
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